1952-05-30 第13回国会 参議院 本会議 第45号
戰災復興院は、大橋武夫君が同院特別建設局長在職中の昭和二十一年十二月九日に、足利板金工業組合に対して二十五万フイートを発注したが、受注者たる足利板金工業は、かかる大量の物件を短期間内に生産するには、その企業形態、資力から見て不適当であります。即ち社長である田中君がみずから二重煙突を作るような手工業的企業であります。
戰災復興院は、大橋武夫君が同院特別建設局長在職中の昭和二十一年十二月九日に、足利板金工業組合に対して二十五万フイートを発注したが、受注者たる足利板金工業は、かかる大量の物件を短期間内に生産するには、その企業形態、資力から見て不適当であります。即ち社長である田中君がみずから二重煙突を作るような手工業的企業であります。
○田中一君 私は戰災復興院時代と考えているが、当時の混乱した、占領軍にいわゆる国が調達したということ、その命令を受けるという立場で、恐らくそういう混乱時代に無論不用な物も買わなければならないという事実がたくさんある。或いはそれを売つてよろしいという命令がなければそのまま持つておらなければならないということもあつたと思う。従つて現在までの検査院からいろいろな意味の批難は当然です。
如何にもまずい、混乱時代とは言いながら買い方もまずい、それから戰災復興院時代は別として、名古屋に分けたり、五円で売つたということは、如何にもまずいのでありますが、別にその蔭に犯罪があるというようなことは私どもとしては考えておりません。
もう一つそれから重大なことだと思いますが、当初の二億円の工事につきましては、その当時は材料を官給すると言いますか、大部分、さつき申しましたトラツプのようなものは業者持ちではないのでありまして、調達庁なり、戰災復興院が購入しておりまして、それが全国の倉庫に残つておりましたものを集めたものでありますし、大体その当時は官給するような建前になつておりましたので、当時のものと直接比較にならないかと思いますが、
これは従来戰災復興院当時から保有いたしておりました機械、殊に進駐軍から拂下を受けました機械乃至はそれ以前から或る程度保有しておりました機械を、地方公共団体に、只今申上げたような事情で、余力があればできるだけこれを貸付けるという建前をいたしておりますので、その費用が若干計上されておるのです。内容は、その事務に必要な人件費、旅費等が計上されておるわけでございます。
これを除去するために、なるべく統一したいというので、戰災復興院となり、これでもだめだというので現在の特別調達庁となり、それでもなお軍の要請にこたえられないとか、占領軍治下の日本政府としては、まだまだ要求に応じられないというような意味で、現在の機構に切りかわつたくらいでありますが、現在の機構では、きゆうくつすぎるくらいきゆうくつで、実際もらうべき金ももらわないで困つている人がある。
官給材は、当時あなた方が直接——官庁はみなやつておりましたので、東京都でも問題になりましたし、建設省でもいろいろなことがいわれておつたのですが、当時全部官給しておりまして、その倉庫の残を戰災復興院に引継ぐときに、材木が一万石あつたものが五千石しかなかつた、あとの五千石は一体どうした。二千石は目減りで、あとの三千石は工事にぶつかけてしまつたというような精算方式がとられておつたのです。
これを見ますと、三九三の当時の所管者は戰災復興院の大橋武夫君のようであります。三九四は東京都長官の安井誠一郎、こういうことになつております。この工事は、私が申し上げるまでもなく、終戰直後は終連が所管しておつたのですけれども、その次に戰災復興院、その次に特別調達庁、こうなつております。
一、調査結果の要約 (一) 二重煙突の受註及び納品の経過 (1) 昭和二十一年九月二十日附LD三五に基き、戰災復興院は同年十二月九日、田中及び高橋の共同事業たる足利板金工業組合に対し、二重煙突二十五万フイートを発註した。併し受註者たる足利板金工業組合は、かかる大量の物件を短期間内に生産するには、その企業形態、資力等から見て適当でない。
特別の前身であるところの戰災復興院が、二重煙突二十五万フイートを受注能力のない足利板金に随意契約で発注しているが、(「それは片山内閣だ」と呼ぶ者あり)はつきりしているか……。
一、調査結果の要約(一)二重煙突の受注及び納品の経過 (1)昭和二十一年九月二十日附LD三五に基き、戰災復興院は同年十二月九日、田中及び高橋の共同事業たる足利板金工業組合に対し、二重煙突二十五万フィートを発注した、併し受注者たる足利板金工葉組合は、かかる大量の物件を短期間内に生産するには、その企業形態、資力等から見て適当でない。
○証人(瀧野好曉君) たしか戰災復興院の次長に昇格されたものと思つております。当時の次長が重田氏でありまして、重田氏が次長をおやめになつて、特別調達庁の総裁になられたそのあとを直ぐ襲つて、大橋氏が戰災復興院の次長を拜命されましたから、私が特別調達庁に九月の初めに移りましたときは、殆んど同時に次長になられたと思つております。
○証人(瀧野好曉君) 余計なことになるかと思いますが、今お話せよというお話でありますので、若干附加えますと、契約担当宮である私の決裁も勿論でありますが、そこに至るまでは非常な経過を辿つて参るのでありまして、御承知かと思いますが、当時殆んど物資が統制でございますし、商工省におきまして、生産する資材の割当もいたしますし、生産指示もいたしますので、先ずLDならLDというものが経連から商工省、それから戰災復興院
当然建設行政の一元化という意味ばかりではなく、多年の経験も持ち、技術も持つておるところの大蔵省営繕管財局の流れを組むところに国費の支弁に基く建造物の統一をやらせることが妥当であると、こう考えておりましたのでありますが、御承知の通り終戰後戰災復興院ができまして、現在の建設省になりますときに、当時の大蔵省営繕管財局の官制と同じような条文が規定されております。
品物の注文が、すでに大橋君の戰災復興院在職中にかかりまして、この注文につきましても、大橋君は関係しないと言われますが、大いに疑うべきものがあります。退官してこの会社の顧問になり、問題の代金の支拂いをあつせんし、相当の報酬も得ておるというのでありますから、関係は十分であります。
戰災復興院は、大橋武夫氏が同院特別建設局長在職中の昭和二十一年十二月、足利板金工業組合に対し二重煙突二十五万フイートを発注し、二十二年九月、特別調達庁の発足によつて同契約も同庁に移管され、他面、又足利板金工業組合は田中平吉及び高橋正吉の組合組織による共同事業であつたのが、その後、足利板金工業所と名称を改め、次いで足利工業株式会社と改組し、引続き同契約を承継したものである。
戰災復興院は昭和二十一年九月二十日付LD35による二重煙突二十五万フィートの調達要求に応ずるため、昭和二十一年十二月九日付復特設契六三Dを以て足利板金工業組合に対し、これを発註した。而して昭和二十二年九月一日、特別調達庁の発足によつて同契約も同庁に移管されることとなつた。
この状態を調べて参りますと、昭和二十一年戰災復興院というのが当時建設を担当いたしておつたのであります。戰災復興院がこの建設に着手いたしますそのときから問題になつておつた事項でありまして、その記録は相当私どもの所に残つております。
○政府委員(池口凌君) 当初ガスのメーターは戰災復興院におきまして設置をすべきだと、こういう計画で、軍のほうにも承認を求めるようにいたしたのであります。
これはセメント防水剤であります、これは戰災復興院で、二十一年十月から二十一年四月までの間に、大阪府セメント防水材工事統制組合から購入したものであります。全体の数量が四万四千百カンでありまして、価格が八千七百四十九万七千余円、こういう大きなものであります。
別個の商工省が発注するのであつて、戰災復興院においては、あの人が計画局長か何かしておられて、何らかの関與はないのですか。
私どもは特に綱紀の問題につきましては、長官初め常に戒めておるところでございまして、ただ先ほど官房長からも申しました通り、調達庁の発足当時戰災復興院からそのまま厖大な事務量を引受けまして、しかも機構的には非常にまだ貧弱なものであつて、当時におきまして、ことにまた各種手続等に軍のやかましい、指示がありまして、その事務の取扱いが軌道に十分に乗り切れなかつた。
それによりまして戰災復興院において当時契約をいたしたのであります。防水剤についても同様にすべて私どもの購入します契約は軍の命令がなければ、品種についても、数量についても、全部軍の指示がなければ絶対に契約しておりませんし、PDあるいはLDに根拠のないものは絶対に契約をいたしておりません。
○堀井政府委員 検収の業務は、先ほど官房長からも御説明申し上げました通り、戰災復興院から納入代行業者に委託するという形式がとられておつたので、特調におきましても当時まだ陣容が整いませんので、そのままそういう形式をとつておりました。従いまして事務的には、大平商工の代表者でありまする山口某を特調の嘱託といたしまして、これを検收官としておつた次第でございます。
それから一方取立てておるほうから頼まれて、自分が顧問をしておる会社から返還の計画をしなければいかんという非常に複雑な立場にいられたことはわかつておりますが、大橋さん、実はそのときに全部会社のほうが出してしまえば会社が潰れてしまう、併しまあ一番初め戰災復興院の当時の関係から、発注したあとからこういう問題が起つたんだというようなことで、是非返還ということはできるだけすぐしなければいかんというようなお考えを
○委員長(棚橋小虎君) いや、証人は戰災復興院から支拂いを受ける際の方法とか時期とかいうものについては御存じないんですか。
○説明員(長岡伊八君) 今の点につきまして成増のときのことは、戰災復興院の時代であつたと思いますが、ちよつと存じませんが、現在一番集団でやつておりますのはさつきお話のありました相模原の計画、これは二十何業者入つておりまして、殊に重複いたしております。併し道路を造つたものを又掘り返すというようなことは殆んどございません。
○説明員(辻村義知君) ガス排気筒の発注の経緯につきましては、これは昭和二十一年九月の分の要求によりまして、納入計画をいたしましたのでございまして、当時戰災復興院がこの契約の衝に当つております。
尚次に足利板金工業株式会社に何故に二重煙突の発注をしたか、これは一組合であつて有力なメーカーではなかつたのではないかという御質問でありますが、当時は先ほども申上げましたように、戰災復興院がこの事務を処理をいたしておりまして、戰災復興院の契約でございますので、実はその事情は詳細には存じませんのでございます。
○カニエ邦彦君 私は聞くところでは当時の戰災復興院の実際の実権を握り、業務をやつておられたのは大橋、今の法務総裁であつたとうように聞いておるのですが、それに違いないのですか。
○カニエ邦彦君 当時この戰災復興院のこういつた任務に当つておられた最高幹部は復興院総裁かどなたか、或いは又復興院の次長は誰がやつておられたか。
かように二つの部門に分ちまして建築行政、或いは住宅行政というものを分担いたしておつたわけでございますが、戰災復興院というものができます際に、厚生省にありました住宅政策というものが戰災復興院に一本になりまして、それが建設省にそのまま引継がれて来ておるわけでございます。そういう事情から申しまして、住宅政策というものは建設省一本でやつて行くのが私は行政の本筋と考えておるのでございます。